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先輩に学ぼう!得点力UP法
 次にご紹介するものは、中学校2年生の社会科(歴史)の定期考査で、過去3回の平均をかなり上回る結果を残せた=苦手を克服することができた生徒の「勉強法」(授業評価アンケートより)です。

 参考にできそうな得点力UPの方法はあるでしょうか?

・・・・・Aさん・・・・・・

 私は、今まで歴史の勉強をするのがとても嫌いだったし、暗記をすることは苦手ではないけれど、やっぱり苦痛だった。でも私は、先生に歴史を習うようになって「理由や背景」を考えるようになり、どんどん楽しくなってきた

 テストの点数が悪かったとき、先生は出来たところについてはすごくほめてくれたし、できなかったところもなぜできなかったのか?など、結果だけをみるのではなく、私の勉強の過程をみてくれたのでとてもうれしかった。

 よく考えてみると、私が高い得点をとったときは、役に立つ資料が配られたときだった。日本と世界を比べることで学ぶことも多かったし、すごく楽しくなると思う。

 だから、1年を通してわかったことは、歴史を勉強するときはいろいろな視点から見た方がわかりやすいし、よく覚えることができると思う。

・・・・・Bさん・・・・・・

 今までは、授業中にノートをとるのに必死だったのを、話を聞くことを中心に変えて、板書よりも、気付いたことをメモするといったことに変えた。
 
 家庭学習では教科書とノートを見比べて、重複しているところは目立つように、足りないところは書き加えて・・・とまとめノートを作った。

 やはり、どれだけ市販の問題集を解いても、授業をしっかり聞くことにはかなわないと思う。

 歴史は物語のようなものなので、聞いていると楽しいし、意外とずっと頭に残っているものです。

・・・・・Cさん・・・・・・

 先生の書いた(黒板の)図を書かないこと。

 先生の書いた図は良くまとまっているとは思うが、自分なりにもう一度まとめて、自分の図を書いたり、先生の図を言葉にして表したりもした。そうした方が・・・何というか分かりやすい。

 他には、友達と説明しあうこと。まわりに質問してくれる友達がいるからなのだが、その友達に説明することで、理解しているかどうかがわかるし、新しい疑問ができたりもした。

 (テストでは、資料から分かることを書くだけではなく、資料を見て浮かんが疑問を書く問題も出題されます。また、資料からは分からないことを書くというものも・・・。)

 得点がUPするきっかけは、人それぞれということでしょうか・・・?
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テーマ:学習
ジャンル:学校・教育
指導力不足の教師への対処法
 生徒の立場で、指導力不足の教師にあたってしまった場合、最も困るのは、学習ができない環境になってしまうことです。

 私語・立ち歩き・時間を守らない・居眠りなど、集中できない時間になってしまうのは、取り返しのつかないロスであり、完全にマイナス・サムの世界になってしまいます。

 その対処法は、一つには、割り切って「休み時間扱い」にすること。

 「休み時間扱い」だからといって、遊ぶわけではなく、自分で学習するのです。

 普通、「休み時間」は休憩時間であり、気を休めたり、体を休めたり、緊張を解いてエネルギーを充電する時間と考えられますが、指導力不足の教師のもとでは、授業中がそういう時間になりますので、「休み時間」の使い方が逆転するわけです。

 休み時間扱いの時間の学習は、ある意味で最も学習らしい学習ができる時間となります。

 ただ、このような環境のもとでは、あたかもゼロサムベースの世界自分は得をして、他の人は損をしている・・・他の人が遊んでいるすきに、自分が先へ進む・・そういう「抜け駆け」的な態度への嫌悪感をもつ人も多いと思います。

 学校という教育の場は、基本的にプラスサム・ベースの世界でなければいけないのです。

 一部の人の力がついたり、得をしたり、というのではなく、みんながみんな、力をつけ、互いの成長を喜びあう、そういうWin-Winの関係が基本になければなりません。

 では、どうするか。

 よく失敗する指導力不足の解消法は、教師の「やり方を変えさせる」というものです。

 教師が指導力不足に陥る最大の原因は、環境の変化に対応できない、自分のやり方や信念に固執する、などという、その人本人の資質によるものです。
 
 完全な「排除」が目的ならそれ相応の方法もあるのでしょうが、やはりことは「教育的」に行う必要があるでしょう。

 患部を開いて塩を塗り込もうとするのではなく、患部を花で飾るというのが最善の対処法です。

 環境の変化に対応できないという「病状」は、逆に言えば、それ以上、悪化のしようがない、他に転移しない病巣があるのであって、それを切除するのではなく、「変わらない」ことの価値を認め、それを安定させていることに喜びを覚えるようにすればよいのです。

 どんなことがあっても、対処法を変えない、そういう信念に固執した行動様式にこそ、こちらが邪魔をされることのない、安定した学習が展開するチャンスを生み出してくれると考えます。

 そして、多くの人が自分たちの損失に気付きはじめたころ、教科の学習ではめずらしいであろう「自治活動」の場が生まれるチャンスをうかがうのです。
 
 「ルールをつくろう」という話にもっていけると、教育的効果もより大きくなり、学習の主体性も生まれ、他者の存在に配慮した、具体的かつ本質的な意味のある学習が展開できるようになることが期待できます。  

 学習者の立場で、一番やってはいけないのが、指導力不足の教師を「教師」だと考えてしまうことです。相手を教師だと考えてしまうと、教師が「責任を果たさないのがおかしい」という結論になり、自分の「学習する立場」の責任を見失いがちになるからです。

 「学習」という態度から最も遠い距離になる教師を「学習者」と想定することで、自分がしっかりしないといけないということに気付くはずです。
テーマ:学習
ジャンル:学校・教育
教師を「教師」と思うな
 以前に書いた記事「教師に左右されない学習者としての在り方」と同じ趣旨の話です。

 学力向上の秘訣の一つが、教師を「教師」と思わないことです。

 「教師を教師と思うな」という言葉の響きから、抵抗感を感じるような人は、学力をつける途上できっと「壁」にぶち当たった経験がある方でしょう。

 「教師を教師と思うな」とは、「人間として尊敬するな」とか、そういう人格を否定するような意味の言葉ではありません

 教師を「教えてくれる人」「私を成長させてくれる人」と思っている限り、学習者としての自立、主体的な学習者としての覚悟が十分にならないおそれがあるのです。

 学力向上の秘訣、コツの一つは、目の前の教師を「教える人」ではなく、「学び人」「学んでいる人」「(自分と同じ)学習者」として見ること、接することです。

 教師は、知識・理解、思考・判断など、基本的にあらゆる面で生徒を超えた存在ですが、そういう教師から「学ぶ」ことを、知識・理解とか、考え方・判断の仕方などに限定してしまうと、時間的にも物理的な量的にも、教師にほんの少し近づくだけで、結局、本当に「学ぶ」ことにはなりません。

 教師が、どのように「学んでいるか」を感じ取るような営み

 これが「学習者」として最も効果的な教師との接し方です。
授業ノートは帰宅後の「先生」
 授業内容をよく理解できている生徒と、「理解」するところまで到達できていない生徒の違いは、授業でとるノートにあらわれてきます。

 どのような生徒でも、ノートは帰宅後に頼れるただ一人の先生です

 その先生=ノートとの対話によって、理解が深まったり、新しい疑問が生まれたり、理解できていないことがわかるようになります。

 「理解できていないことがわかる」ことは、成績を向上させる上でとても大切な通り道です。

 「理解できていないこと」に気付くのに、一番簡単な方法は、他の生徒(あるいは親など)に説明してみたり、質問してもらったりすることです。

 「人に説明する」という学習法で最も効果があるのは、「理解できていないことがわかる」ことです。

 よく、教育実習生に、「わかっていること」と「教えること」には千里の隔たりがある、という話がなされますが、大学生でも、「人に教える」というステージに立って初めて、「自分が本当はわかっていなかったということ」に気付くのが多いのです。

 授業がよく理解できている生徒のノートを見ると、それが「先生」の機能を果たせることがわかります。

 先生としてふさわしいノートがつくれるか、そして、そのノートを助手として、自分が適切な先生役になれるか、そんな学習法をためしてみてほしいと思います。
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ジャンル:学校・教育
学力向上への「勝負脳」としての「整理脳」
 部位によって役割分担がある「脳」の「能力」ごとに、「~脳」という名前をつけてしまうとすると、

 「嫌悪脳
 「勝負脳
 「闘争脳
 「攻撃脳
 「自己防衛脳

などという言葉ができてしまうのでしょうか。

 どんな「脳」が学力向上に適しているかといったとき、「嫌悪脳」の機能が低下してくれている方が有利であろうことは、子どもでも気付いているはずのことです。

 「~は嫌い」「~先生は嫌い」という発想が、その子ども自身の足をどれだけ引っぱっているか、担任などをしているとどうしても気にかかります。

 「競争原理」の否定は、せっかくの「闘争脳」を殺してしまい、「伸びる芽」を摘む結果になる(公立学校の一部に見られる顕著な例である)一方、「競争原理」の安易な導入は、「攻撃脳」を刺激してしまい、目先の成果は得られても(進学塾の一部に見られる例)、長い目で見て「大きな失敗を犯しやすいデメリット」「伸びきったゴムの状態」を招く恐れがあり、気を付けたいところです。

 では、学力向上にとって適度な刺激を与える「勝負脳」とは何でしょうか。

 私が思いつく一つの例は、「整理脳」です。

 たとえば小学生にいきなりファイリング技術を教え込もうとしても、そのうちめんどうくさくなって、三日坊主に終わってしまいがちです。

 小学生にも習慣化できそうな「整理脳」の第一歩で、その成功例を目の当たりにした方法は、今日やること」(「明日やること」)リストの作成と、「今日、やるもの」「今日、終わったもの」を置くスペースの固定化です。

 ビジネスマンなら使っている人もいる、「to do リスト」と「未決」「既決」ボックスの子どもバージョンです。

 この方法が習慣化すると、学力向上はもちろんのこと、

 机のまわりが自然と整頓される。

 忘れ物がなくなる。

 自分が取り組んだ(取り組む)課題が「見える化」される。

 達成感が得られやすくなる。

 自分から机に向かうようになる。

 忘れ物がなくなる。

などの効果も期待できます。 
テーマ:学習
ジャンル:学校・教育
知識・理解の「コーヒー理論」
 物事を「理解」しているとは、様々な「知識」を関連付けて、必要なときに自由に引き出せる、そんな状態とイメージすることができます。

 よく言われる「丸暗記」は、一問一答式の問題への対応は可能になるかもしれませんが、論述でその知識を使いこなすには、やはり「理解」していることが前提になるでしょう。

 ここで、知識・理解の「コーヒー理論」をご紹介します。

 丸暗記型の知識というのは、たとえばこの豆はどこ産のものだとか、100gいくらだとか、そういうもので、一応「」ごとにきちんと分類・整理されている状態です。

 しかし、この知識だけでは、どのような香りがするのかとか、味はどうだとか、どれとどれをブレンドするのが好みであるとか、そういうことは「わからない」。

 本当に「理解」されている状態に近づくには、実際に豆をひいて、飲んでみた経験があるかどうかが大切です。ただこのときも、人が引いた、どこのどういう豆か分からないものをただ飲んだだけでは、やはりコーヒーを「理解」したことにはならないでしょう。

 自分にとっての本当の「理解」をする上で重要なのは、「自分のフィルターを通す」という過程です。

 様々な知識が、一度粉々になって、湯で蒸され、成分が抽出されて、カップに落ちていく過程。

 このときに、通過していく「フィルター」の機能が、「理解」という状態を生む上で決定的な役割を果たすと考えられます。

 それは、情報の取捨選択という意味もありますが、単に液体と固体を分けるということだけではなくて、本当に大切な情報が抽出される、そういうイメージです。

 また、より「理解」しやすくする=「飲みやすい」「おいしい」コーヒーを飲むためには、ブレンドをしてみたり、量や温度を調整したりと、「他の要素との関連付け」が効果的になる場合があります。

 学習者にとってはたいてい、豆が山のように目の前に積まれている状況から学習をスタートするという、ハングリー精神を発揮しにくい問題がありますが、「宝物」「幻の豆とブレンド」を見つけ出すつもりで取り組んでみたらいかがでしょう。
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成功を生む「習慣」の意識化
 資格試験などに合格している人たちの、メンタル面を除く「学習法」や学習の習慣としては、以下のようなものがよく紹介されています。

○最初は全体把握から。細部にこだわるのは後回し。
○思いついたこと、わかったことをこまめにメモする。
○毎日決まった時間と場所で一定時間学習する。
○場所や時間にこだわらず、いつでもどこでも学習できる。
○隙間の時間にもこまめに学習を繰り返す。

 すべて真似ができなければ合格できない、というわけではないでしょうが、学習のコツとは、結局、コツコツと積み重ねること、それに尽きると言えそうです。

 「全体把握」練習は、たとえば図書館で無作為に選んだ本を速読して、その要旨をつかむとか、教科書の予習としてそのような読み方をするとか、「目次」で構造を見通してみるとか、そういう方法が頭に浮かんでいます。

 メモについては、教科ごとのノートには、必ず自由記述スペースを設けておいて、いつのタイミングでも書き込めるようにしておくとか、大きめの付箋をいつも読みかけの本や教科書、ノートに2~3枚はっておくなどの方法が考えられます。

 教室移動のない10分休みは予習や復習に時間をかけるとか、学校の行き帰りで、どの家の前から校門に入るまでは、新しい漢字や英単語を10歩に1個の割合で見て覚えるなど、もしオリジナルでおもしろい時間の使い方が工夫できれば、苦にならずに続けられて、「習慣化」することに成功するでしょう。

 まず、「習慣化」することを「意識化」してみて、できそうなことから試してみることをおすすめします。
テーマ:学習
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グループ学習のメリデメ
 「学び合い」の学習スタイルが学校で教育を行う上で「思いやり」「協調性」「助け合い」といった精神を養う上で意義があると考えている教師は(あるいは学校では)、教科等の学習の中で、グループ学習を実施する頻度が多くなります。

 グループ学習を実施する上でのメリットは、その他にも、

○楽しい雰囲気で学習できる
○みんなで取り組むのでやる気ができる
○緊張しないので学習に集中できる
○教師に質問しやすくなる
○できる生徒の優れた考えにふれられる

などの学習効率を高める効果があるのですが、以下のようなデメリットがあることも十分認識した上で、指導者としても学習者としてもうまくコントロールしながら学習を進める必要があります。

●他人に頼りすぎるようになる
●学習に関係のない話をし出す
●意見や考えの食い違いが出る
●できる人だけで進んでしまう
●参加しない人への不満が高まる
●消極的な人は参加しにくい
●学習自体ははかどりにくい

 どのような学習内容がグループ学習に向いていたり、向いていなかったりするのか。
 どのような学習者にとって、グループ学習に向いていたり、向いていなかったりするのか。
 見極めが大切です。
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論拠をもつくせを
 教育論には、「論拠」がないものがたくさんあります。

 それは、「論拠」よりも「感覚」「実感」を重視する国民性がもたらしているもので、過去にも、経験が科学と対立したときに、経験の方が正しかったことが証明されている(参考:日清戦争のとき、脚気の予防に「白米」を食べさせ続けた陸軍の失敗事例)ものがあることから、「根拠」「論拠」に重きをおかないというよりも、「感覚」「実感」を大切にしようとすることについては、異論があるわけではありません。

 「感覚」「実感」を大切にするという伝統は、「論拠」「根拠」でわりきってしまおうとすると、人間関係がぎくしゃくしたり、将来の希望が失われたりと、マイナスの効果が大きい面もあるために、その予防やストレス回避・軽減のための智慧として受け継がれてきているものと考えることもできます。

 だからといって、「根拠」「論拠」を軽視してよいというわけではありません

 たとえば、「詰め込み式の勉強はよくない」という「学習観」があります。

 厳密に何をもって「詰め込み式」というのかもはっきりしませんが、ニュアンスとしては、動物に芸をしこむように、意味も意義も感じさせず、餌(報酬)のためにひたすら言われたこと、書かれたことを覚えるような学習、というものが最悪の「詰め込み式」学習でしょう。

 しかし、いわゆる一斉授業ドリル形式の学習塾で問題をひたすらといていく学習が、はたして「詰め込み式」学習なのか、また、「詰め込み式」学習であるとしても、それが「悪い」学習法なのか、ということについては、疑問符がつけられます。
 
 「新しい学力観」が生まれるずっと前から、「講義形式の授業」はよく批判対象になっていました。

 「独演会」ならぬ「毒演会」だと。

 しかし、それは学習者の立場から考えると、学習者の姿勢自体で、いくらでも有効な学習手段として使うことが可能になるはずなのです。

 指導法の課題と、学習法の課題は完全に一致することではありません。

 そのあたりを明確に区別しないで、どちらかだけを問題にして、だから~もだめなんだ、という結論づけはよくないでしょう。

 では、課題のある授業しかできない教師に教わっている学習者は、どんなことに留意して学習を勧めていけばよいのか、考えていこうと思います。

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図や絵から情報を読み取る力
 画像のデータに比べ、テキストだけの「文字情報」のデータの小ささに驚いたことがある人は多いでしょう。
 これは、単にデジタルデータとしての「バイト数」としてだけでなく、人間の「実感」としての「情報量」としても、確かに言えることです。

 たとえば、たった1枚の写真や絵からは、様々な情報が読み取れます。
 それをすべて文章で説明しようとすると、かなりのスペースが必要になる
 これは、実は数学で扱う図形もそうですし、複雑な数式などでも同じことが言えます。
 
 4と2の3倍を足したものを、10から20の5分の3を引いたものでわったときの分母はいくつか?

 これは数式の方が分かりやすいともいえるし、数式だと間違える子どももいるかもしれない。 

 社会科には、絵画資料写真資料図解というものがあります。
 
 社会科の場合、このような資料や図を読み取るとき、情報を取り出すときの注意点は、情報量は多いのは確かですが、その情報が確かなものであるかどうかは、だれが何のためにつくったかに依存する面があるということです。

 そのように作り手の側の事情を考えると、実はそこから読み取ることができる確かな情報というのはごくわずかであったり、逆に誤解を招く情報だったるすることを知っておかなければなりません。

 「情報がうまく引き出せるかどうか」を知るための調査が、実は「情報によって、よりだまされやすい人はだれか」という調査になってしまっている恐れがあるのです。
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脳が活性化しない入試問題
 著作者からの苦情もよく寄せられる国語の入試問題ですが、これを読むときは、「自分を殺す」必要があります。

 つまり、読み手が何を考えている人間であるかではなく、出題者が何を意図して問題をつくっているかを読み取ることが問題を「解く」上で重要なので、「こうも考えられるのではないか」「この考えはおかしいのではないか」などという「意見」をもつ必要がないわけです。
(「良問」といわれる問題はまた違うのでしょうが)

 こういう読解をしていると、自分の脳の機能の一部が停止しているような感覚におそわれます。
 
 素材となった文章を読むのも受身、問題を解くのも受身では、どうしても「やらされ感」ばかりが募ってしまう。

 「教育失敗学」の方で一年前に書いたことですが、新しい製品のデザインを、専門家に考えてもらった場合と、そのような経験のない人に考えてもらった場合について、それぞれの脳の活動を比較すると、専門家の脳は一部しか使われていないのに対し、デザインづくりが新しい体験になる人は脳全体が活動していることがわかっているそうです。
 このことから、脳全体を活性化するには「新しいことへのチャレンジ」が最適であることがわかります。

 脳の一部しか使わないのであれば、効率的なのかもしれませんが、その人の才能が全部生かされているとは限りません

 創造的な活動をすることによって「やる気」「意欲」を高められるようなタイプの人は、このような国語の入試問題にどのように対処したらよいのでしょうか。

 一つのアイデアとして、多少、時間のロスも出ますし、問題の質によっては悪影響があるかもしれませんが、「自分だったらこの箇所から設問を考える」と意識しながら文章にとりかかる、というのはいかがでしょうか。

 選択問題などは、「文章に書かれていないこと」「極端な表現」が入っている選択肢は消す、などのテクニックで解けてしまうことがあるので、選択肢はあえて読まずに、自分なら正解をこのようにつくる、などと考えてもよいでしょう。

 問題を解くというそのプロセスで能力が高まっていく実感を得たいというのは、よくばりなことでしょうか。
テーマ:学習
ジャンル:学校・教育
教師に左右されない学習者としての在り方
 教科の学習が不得意になる、苦手になる、嫌いになる、興味がわかなくなる、などの「学習の失敗」という問題がありますが、これを、教師の側を中心に述べているのが「教育失敗学」です。

 この問題を、学習者の側から捉えて、その解決方法回避方法を考えるとどうなるでしょうか。

 学習者の側から考える前に、簡単に教師の側の問題を整理しておくと、教師の中には、その教科の指導が不得意な人がいます。
 小学校はわかりやすいのですが、実は中学校でも、社会の教師で地理は苦手だとか、理科の教師で化学の実験の指導が不得意だとか、そういう問題があります。

 それから、教師の中には、もともと教えること自体が不得意な人がいます。
 黒板の字が読みにくいとか、声が小さいとか、授業規律を維持できないとか、教科についての専門性以前に資質・能力に課題がある教師がいるのです。

 こういう教師に教えられている学習者の側が陥りやすい最大の失敗は、「先生が悪い」ということを自分の「学習がうまくいかない」根拠にして、「学習に取り組まない」=「理解が十分でなくなる」ことです。

 漢字や計算、英語のつづりのように、反復練習だけで何とか身に付くものもありますが、文章をしっかり読んで問われていることの意味を理解し、それに正対した答えを自分の言葉で表現するには、内容についての理解が不可欠です。

 ですから、学習者は教師がその学習の成立を支える中心ではなく、学習とはあくまでも自分自身が主体であり、教師はたまたまその学習の進行に立ち会っているだけで、どんな説明をしようが、質問をしようが、それを理解して、答える責任は自分自身にある、そういう自覚をもつことが重要になるのです。

 わかりやすく教えてくれない教師、話がおもしろくない、つまらなそうに授業をする教師にあたってしまった場合は、「自分は不運である」と嘆くところまではかまいませんが、だからといって学習ができないままでよいという理由はありません。

 そういう教師に出会ってしまった場合は、逆に「自分は自分の手で幸福をつかむチャンスがある」と考えてしまうという方法もあります。

 というのは、教師のおかげでその教科が得意になるというよりも、自分の努力によって実力がついたと実感できることになるので、自己肯定感、自己有用感、達成感を得られるからです。
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