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論拠をもつくせを
 教育論には、「論拠」がないものがたくさんあります。

 それは、「論拠」よりも「感覚」「実感」を重視する国民性がもたらしているもので、過去にも、経験が科学と対立したときに、経験の方が正しかったことが証明されている(参考:日清戦争のとき、脚気の予防に「白米」を食べさせ続けた陸軍の失敗事例)ものがあることから、「根拠」「論拠」に重きをおかないというよりも、「感覚」「実感」を大切にしようとすることについては、異論があるわけではありません。

 「感覚」「実感」を大切にするという伝統は、「論拠」「根拠」でわりきってしまおうとすると、人間関係がぎくしゃくしたり、将来の希望が失われたりと、マイナスの効果が大きい面もあるために、その予防やストレス回避・軽減のための智慧として受け継がれてきているものと考えることもできます。

 だからといって、「根拠」「論拠」を軽視してよいというわけではありません

 たとえば、「詰め込み式の勉強はよくない」という「学習観」があります。

 厳密に何をもって「詰め込み式」というのかもはっきりしませんが、ニュアンスとしては、動物に芸をしこむように、意味も意義も感じさせず、餌(報酬)のためにひたすら言われたこと、書かれたことを覚えるような学習、というものが最悪の「詰め込み式」学習でしょう。

 しかし、いわゆる一斉授業ドリル形式の学習塾で問題をひたすらといていく学習が、はたして「詰め込み式」学習なのか、また、「詰め込み式」学習であるとしても、それが「悪い」学習法なのか、ということについては、疑問符がつけられます。
 
 「新しい学力観」が生まれるずっと前から、「講義形式の授業」はよく批判対象になっていました。

 「独演会」ならぬ「毒演会」だと。

 しかし、それは学習者の立場から考えると、学習者の姿勢自体で、いくらでも有効な学習手段として使うことが可能になるはずなのです。

 指導法の課題と、学習法の課題は完全に一致することではありません。

 そのあたりを明確に区別しないで、どちらかだけを問題にして、だから~もだめなんだ、という結論づけはよくないでしょう。

 では、課題のある授業しかできない教師に教わっている学習者は、どんなことに留意して学習を勧めていけばよいのか、考えていこうと思います。

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テーマ:学習
ジャンル:学校・教育
コメント
No title
こちらのブログにコメントさせていただくのは初めてですね。
よろしくお願いします。

漢字の読み書きや四則計算といった基礎があってこそ応用問題ができるもの。
野球選手になるために走りこみをし足腰を鍛えるのと同じことです。
ディベートや考える学習といったものは一見華やかに見えるものですが
それを行う土台がないと指導者の自己満足だけで終わってしまいます。
基礎基本のある者はは応用問題でも相対的に上位に食い込むものです。

感覚的なものは大切ですが、それだけで開き直ってしまうのではなく
そこから仮説を立てて検証していこうとする姿勢が必要なのは言うまでもありません。
安易にカリキュラムを削減し華やかなものに傾倒していかずに
しっかりとした検証の上で行っていただきたいものです。
結局ゆとり教育の責任は誰も取らず子供だけが被害者になったのですから。
2009/02/08(Sun) 13:49 | URL | Psyche | 【編集
初コメントいただきまして、ありがとうございました
こちらのブログでは、直接子どもたちや教師に役立ちそうな話題を書いていくつもりです。
何かヒントになりそうなことがありましたらまたコメントをよろしくお願いいたします。
2009/02/11(Wed) 02:13 | URL | kurazoh | 【編集
教育論の説得性
教育失敗学・・・の方で数回コメントさせていただいたUrokoです。こちらを興味深く拝見しています。

ところで教育論の説得性についてここでテーマにされていますが、私には巷の教育論につきどうにも腑に落ちないものが多いのが気になります。
私は個人塾の講師として小学生から高校生まで見ていますが、小学生と中学生と高校生ではその発達段階に応じて気をつける点や教え方、接し方をまるで変えています。教務の内容・方法も異なるし、一般化できる事と完全に個別対応でするべき事(一般化すべきでないこと)も明確に区別される。

教育論,教務論(その反面として学習論)を論じるときには、その対象をはっきりさせなければ意味がないと思うのです。対象を絞って論じている方の教育論はさすがに説得力を持つものが多いですし、対象を絞らぬものは不当な一般化だなと感じることが多いです。また基礎・応用という区分けも、「基礎とは何か応用とは何か」を定義しないで軽々しく使うと、上のPsyche氏のコメントのような杜撰な論の進め方になりますよね。

「詰め込みが可か否か?」だって、何を持って詰め込みと言うかの議論のほかに、小・中・高生で変わってくるし、また絞ったとしても各人にそれが必要な時期と害悪となる時期があるわけで、「どんな場合に」を考慮しない不当に一般化した論は何も意味がありません。

教育論の説得性欠如というのは、対象を絞らぬ事,場合を絞らぬ事(不当な一般化)に多く起因するような気がします。
長々と失礼しました。これからも勉強させていただきます。

2009/02/15(Sun) 04:20 | URL | Uroko | 【編集
コメントありがとうございます。
教育学にしろ教育論にしろ、たとえば大学で研究されるような実証的なものは、そもそも「汎用性」のある理論にはなり得ません。
そういう論文を読んでいるのも「学会」などというごくごく一部の限られた世界=私共空間の人たちであり、内容がたいしたことなければおかしいことが書いてあってもいちいち反論がくるようなものでもありません。
本にして出版しようとすると、商業主義のためにどうしてもセンセーショナルな内容にしぼって、わざとらしい書き方になってしまいます(編集者がそのように編集します)。
 限られた条件のもとで再現性があるというような世界認識は社会科学ではそもそも難しいでしょう。
 「役に立つ情報」は、そのまま鵜呑みにするようなタイプのものではなく、自分なりに吟味して活用できるかどうか試せるもの、そしてその過程で自分なりに活用できる方法を見いだせるきっかけになるものと私は考えています。
 論文ではないですから経験などに則してどんどん自分流の「論」を公表して、「役に立つ情報」かどうかを吟味してもらえるような公開の仕方でかまわないように思います。
 Psycheさんも批判に対しては積極的に対応される方です。

 「詰め込み」という言葉は、すでに学習の在り方として否定的な捉え方を前提としているものですから、極論すれば学習に興味がない子どもにとっては、テストに出すぞと脅されて学習しているすべてのものは、北京ダックのように食事を詰め込まれているのと全く同じと言えます。結局栄養となるという点のメリットもありますが、それが自分のためでなく、人の胃袋を満たすためになってしまっては、何のための勉強かわからない、といったところでしょうか。
2009/02/15(Sun) 11:11 | URL | kurazoh | 【編集
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